補陀山 慈眼院正観寺縁起

(旧小机領三十三所観音霊場第五番札所)

当山は、福井県永平寺と神奈川県總持寺を両本山と仰ぐ、曹洞宗に属する。
 天正18年(1690)小田原北条氏滅亡。同年、北条氏家臣小机衆中田加賀守、矢上城にて死去。その子藤左衛門は、一族を率いて落ちのび知行地であった川島へ住す。文禄3年(1594)4月、父加賀守並びに一族の供養の為、父の守り本尊であった聖観世音菩薩(秘仏)を奉安し小庵を建て補陀山慈眼院正観寺と号す。
小机曹洞宗雲松院第11世龍山遵朔大和尚を勧請開山、川島隨流院第6世牧翁珠牛和尚を第1世に迎える。明治20年以降、無住となり荒廃する。大正12年9月1日、関東大震災により堂宇が倒壊したが、大正15年3月、再建。神戸下町天徳院第27世大安俊明大和尚が兼務住職となり法地開山する。
昭和3年、中田家14代当主中田要作並びに総代中田復四郎は講中と計り、仮本堂を建立し虎巖俊明大和尚を大熊長福寺より住職として迎え中興する。以来、虎巖俊明大和尚は、檀徒と共に寺門復興・社会福祉事業に一生を捧げ、正観寺の基礎を築く。
※資料「新編武蔵風土記稿」「横浜史稿」より

 

旧小机領三十三所観音霊場縁起

この霊場開創の発願理由としては、毎年洪水をもたらし、農作物、人畜に大変な損害を与える鶴見川の水害からの除災を願い、また亡き犠牲者への回向の為との説がある。徳川八代将軍吉宗の時代、享保年間に小机に住む滝野愛勝という熱心な観音信仰の者が、予てより念願する「三十三所観音霊場」の開設を、現在の第三十三番札止めの霊場である曹洞宗法昌寺の宗運和尚に相談したところ、和尚は同寺の朝庵和尚を伴い、現在第一番霊場の浄土宗泉谷寺の転譽上人を訪ね、この三人の和尚によって霊場草創の案が立てられたと云うことである。三人は、小机領内の寺々を巡って霊場に適する寺に勧奨し、転譽上人より幕府に霊場開設が願出された。幕府より許しを得て、ここに小机領三十三所観音霊場の開創を見るに至る。時に享保十七年壬子の年(1732)であった。
この霊場の開設によって、近郷近在の善男善女は、大いに歓喜して巡礼納札する者が日増しに多くなり、札所は大層賑わったと伝えられている。その後、二十四年を経て宝暦六年丙子の年(1756)に各霊場がはじめて尊像の御開帳を行ったところ、人々の喜びは、一層大きなものであったと伝えられている。それ以降、十二年に一度、子の年に御開帳する慣わしとなった。
第五番札所正観寺御詠歌
「めぐりきて ここのほうみょう しょうかんじ
             うちおくふだも のちのよのため 」